真珠島
真珠島は香川県さぬき市志度にある小さな島で、志度寺縁起海女の玉取り物語のヒロイン海女が、唐から送られた面光不背の玉を竜神から奪い返したという伝説と歴史の島である。
元和三年(1617)国主「生駒正俊」は『真珠島は、弁財天・吉祥天を安置しあり、もっとも崇敬仕るべき事』と記した定め書を下し、また江戸時代には藩主自ら幕府の巡検使をこの島に案内した。
大正の初め南部が陸続きとなり、戦前には海水浴場として賑わった。戦後東側に養魚場が造られ、昭和四十九年の志度湾埋立工事で完全に陸化した。西側には少しの渚を残し、昔の面影をとどめている。平成二年二日 さぬき市・さぬき市観光協会 現地説明板より転載しました。
真珠島西国三十三観音
観音さまは無限の愛と尽きることのない守護力をもって衆生の諸悪業の代苦者となり、あらゆる危難を救ってくださる菩薩である。
この三十三観音は明治のころ通称志度寺山(現徳島文理大)付近に安置され、里人たちの信仰の対象となっていた。昭和四十六年、志度湾埋立事業でこの山が採土地となったため、石仏もしばらくは散逸していた。
このたび滅失していた七体を善意の人たちの寄付で復元、これを機会に真珠島周辺に移し、巡拝道を造り、多くの人が参詣しやすようにしたものである。昭和五十九年十月 さぬき市観光協会 現地案内板より転載しました。
海女の玉取りの伝説は、「日本書記」の巻十二允恭天皇十四年の条に、天皇が淡路島で狩をされたとき、不漁だったので占わせたところ、赤石(明石)の海底にある真珠を取って、島の神に捧げればようというので、阿波の国の海士男峡磯に命じて海底に潜らせ、取った玉を神に奉ったところ多くの獲物を得たという伝説に影響されこの伝説が生まれたといわれ、執筆者は相良武任入道完徹である。
藤原鎌足の女百光が、唐の高宗皇帝の妃となり、奈良の興福寺に奉納のため、3個の宝を送った。そのうち面向不背の玉が讃岐志度の沖で竜神のために奪われたので、淡海公藤原不比等は都から志度にきて、海女に命じて海中を探らせたが見当たらない。その後、純情の海女と恋仲になり一子が生まれた。それが藤原北家の房前だという。不比等から面向不背の玉を竜神に奪われたので、都から来たものだと事情を明らかにされた。海女は子供の出世のためならと命綱を腰に巻き、海底に潜っていきました。見事に宝珠は取り戻しましたが、龍神に覚られた海女は自分の乳房をさいて、龍神の嫌う血を流し、宝珠を乳房の中にかくして死体となって引き上げられました。
藤原不比等は、海女の真情に心を打たれ、海辺に墓をたて堂宇を建立して「死度寺」としました。
藤原不比等は心を残しながらも、宝珠と共に房前を伴い、奈良の都へ帰って行きました。
それから13年後、持統7年藤原北家の祖となった房前は、僧行基を伴って志度浦を訪れ、母供養のため千基の石塔を建立したという。今も、その千基の石塔の一部といわれる石塔20基が残っています。
海女の命日である十六度会の日には、今でも志度寺他で十六度市と呼ばれる市が立つ。
文はさぬき市WEBなどから転載しました。
島の全景
頂上まで続く階段
山頂の弁財天
西国三十三観音船形石像
渚跡
東屋
歌碑「三智子」
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