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讃州丸亀港の太助灯籠

【讃州丸亀港の太助灯籠】
  太助灯籠(石の台座に銅製の灯籠)
 かつて金毘羅詣での客で賑わった丸亀港のシンボル。旧金毘羅五街道・丸亀街道の出発点にあたり、琴平の高灯籠までの 150丁(約12km)の道のりを参拝客はこの太助灯籠(たすけとうろう)を目印に丸亀港に入港したものです。
 太助灯籠は、今も残る船着き場「新堀湛甫(しんぼりたんぽ)」(1833年建設)に、江戸在住の人々(千人講)が浄財を出し合って天保5年(1834年)に完成。台座には「江戸講中(こうじゅう)」と、そして灯籠の側面には寄進者や世話人ら1,357人の名前が刻まれています。
 寄進者の中で、最高額の80両を寄付した「塩原太助」の名にちなみ、「太助灯籠」と呼ばれるようになったといわれています。その後、近くにもう2基の灯籠が建てられましたが、第二次大戦の折りに金属供給の憂き目にあって、今は残されていません。
 危うく難を免れた太助灯籠は、昭和41年に補修、53年には往時の姿そのままに復元され、61年にはその位置を一段高くして、今も丸亀港を見守続けています。

  瀬山登
 広澤虎造の浪曲による森の石松の“金毘羅代参”が大当たり、金毘羅さんは江戸の昔から代参をふくめ、日本中の人たちが瀬戸内海を渡って押しかけていたことを知った。
 瀬山登(せやまのぼる)は丸亀京極藩の江戸留守居役という人物で、五万石あまりの貧乏藩にあって、徳川幕府との折衝で骨身を削っている。
 ことに、丸亀港の整備拡張は丸亀藩の大事業で、『新堀湛甫(たんぽ)及び銅灯籠』という名のもとに、なんと二十年もかかって完成させているのだ。
 ときは汚職で名高い水野老中の時代。律儀な能吏・瀬山登は、その折衝やら、金品の出納を洩れなく書きとめている。
 大灯籠が江戸でつくられ、丸亀まで送るにあたっても、幕府勘定方を接待せねばならない。
 当時、丸亀藩江戸屋敷には酒を飲める担当者がいなかったので、もっぱら瀬山登が一人で引き受けたと記録されている。『…御門限を過ぎて帰りましたのは、不調法で恐れ入ります。』江戸屋敷に帰邸するのが明け方の四時になったときの彼が提出した始末書である。
『水野老中へ 縮緬(ちりめん)三巻と肴、勘定奉行へ銀千枚と肴、その他計銀三十六枚、金三十一両一分二朱』と記述が残っている。
 瀬山登は、江戸屋敷の隣にある九州中津藩から、“うちわ”の作り方を教わっている。中津藩も同様の貧乏藩であったので、地元の特産竹をつかって、足軽たちに内職の竹うちわを作らせていたのだ。

  丸亀うちわ
 瀬山登は習った竹うちわに、松脂(まつやに)を塗って涼しげな硝子団扇(がらすうちわ)を開発、金毘羅さんに集まる参詣客に売って、ついに幕末には丸亀は全国一の団扇の生産地となっている。
 記事は現地案内板・WEBから参照抜粋しました。
 写真は2009年12月29日撮影











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